十五少年漂流記。フランスの作家ジョージ・ヴェルヌの作品です。
そのタイトルの通り、少年たちの冒険譚・・・嵐を超え、海を超え、島を探検し、悪いやつをやっつけるというわんぱく少年夢盛りセットのような内容のフィクション小説です。
私は(確か)中学生の頃、夏休みの宿題「読書感想文」を書くために無理やり読んだ記憶があります。山も海も好きではなかった当時の私が小説の内容に心惹かれることもなく、苦痛とともに苦労して宿題を仕上げました。
先日実家の片付けをしていたときに出てきたこの十五少年漂流記。なんとなく再び読んでみました。
すると当時は思いもよらなかった描写に興味を惹かれたのです。
十五少年漂流記 あらすじ
十五少年漂流記は1888年に出版されたフランスの文学小説で、私が読んだのは1958年に石川湧氏によって翻訳されたバージョンです。フランス原作原文から訳したものだそうですが、ちょっと長い部分を端折っているそうです(訳者あとがきより)
舞台は1860年代のニュージーランド。
イギリスの植民地であったニュージランドには、入植者たちのこどもたちのための教育機関、チェアマン寄宿学校があった。生徒数は約100人で、みな上流階級の子供たちであった。
2月になり2ヶ月間の夏季休暇を与えられた生徒たち。
生徒の親が貸してくれたヨット・スラウギ号で、6週間かけてニュージランドを一周しようという計画を立てていた。
航海に参加する予定だったのは8歳〜14歳からの少年たち14人で、もちろんヨットの持ち主である生徒の父親でもある船長や、水夫長、水夫、料理人などの大人たちも帯同予定である。
出発前夜から乗り込んだ子どもたちを残し、他の大人たちは全員酒場に出かけてしまった。
するといつのまにか網が外れており、スラウギ号は大海原へと流されてしまう。
チェアマン寄宿学校の生徒14人と、ただ一人見習い水夫として船内に残っていた12歳の少年を乗せて。
と、まぁこんな感じの導入なのですが、嵐に遭いながらもスラウギ号は奇跡的に無人島に流れ着きます。
島に流れ着いてからもなんやかんやあり、島をちょっとずつ探検し、狩りをし、釣りをし、たくましく生き抜いていきます。
物資はほぼ無事だったものの故障してボロボロになったスラウギ号を降り、島の中央にある洞穴に住み替えて冬も乗り越え、ある日同じように島に流れ着いた悪人の船を奪取し、島から脱出してHappyendを迎えます。
十五少年漂流記 登場人物
十五少年漂流記にはそのタイトルの通り15人の少年が登場します。
以下にざっくりとしたキャラクターの紹介表を置いておきます。
ちなみに仏=フランス人、米=アメリカ人、英=イギリス人です。
ブリアン(仏)13歳。ニュージーランドで働く技師の息子。
ジャック(仏)10歳。ブリアンの弟。いたずら大好きっ子。
ゴードン(米)14歳。みなしごだが元領事が後見人。ファンという猟犬を飼っている。
ドニファン(英)13歳。一流地主の息子。銃を使った狩りが得意。ド金持ち。
クロッス(英)13歳。ドニファンのいとこ。ドニファンの太鼓持ち。
バクスター(英)13歳。商人の息子。手先が器用。
ウェップ(英)12歳。裁判所役人の息子。
ウィルコックス(英)12歳。裁判所役人の息子。裕福。
ガーネット(英)12歳。退役軍人の息子。父親が船の持ち主。
サーヴィス(英)12歳。金持ちの開拓者の息子。
ジェンキンズ(英)9歳。神学協会会長の息子。
アイヴァースン(英)9歳。牧師の息子。
ドール(英)8歳。陸軍将校の息子。
コスター(英)8歳。陸軍将校の息子。
モコ(国籍不明)12歳。見習い水夫。家族はずっと前から開拓者に雇われている。黒人。
15人もキャラクターが居ると混乱しそうですが、ストーリーはだいたいブリアン、ゴードン、ドニファンの主導で展開します。
国籍がわざわざ描写されているのは、出版された年代的に帝国主義の影響があったからかもしれません。帝国主義とは簡単に言えば、自国の利益、領土、勢力の拡大の為に他国、他民族を侵略することは是とする思想のことです。
そのため国籍の違いは重要なファクターなのでしょう。
「イギリス人は伝統を大切にする」とか「フランス人だから規律に縛られない」などの国籍=アイデンティティという表現もモリモリ出てきます。(ただし執筆しているのはフランス人のヴェルヌなので、基本的にはずっとフランスアゲ↑の描写)
モコに関しては黒人というアイデンティティと、ずっと前から家族もろとも開拓者に雇われているという表現です。ニュージーランドは1840年にはイギリスによる植民地支配を受けており、原住民のマオリ族は追いやられています。
モコ自身はニュージーランド原住民の子どもなのか、それとも奴隷貿易で連れてこられた黒人の子孫なのか細かい描写はありません。いずれにせよ12歳で労働をさせられており、それが問題では無い時代です。
加えて少年たちの父親の職業にまで言及があるのは、父親の役職が上か、家が裕福かどうかがそのまま子どもの力関係に影響するからです。1860年当時は女性に財産相続件が無く、もし家庭の父親が亡くなれば財産は息子にスライドします。(妻および子女には相続権・所有権がないため、男子がいなければ親族の男性に相続権が移る)。やたらと詳しい父親の描写と反対に母親の描写が皆無なのもそのためでしょう。
描かれないことでより浮き彫りになるもの
十五少年漂流記の舞台は1860年代ですが、意外にも直接的な人種差別のシーンはほぼ描かれていません。メインテーマはあくまでも少年たちの冒険譚だからです。
その中でも最もストレートな描写は、少年たちが自分たちのリーダーを決める為の投票シーン。
投票は午後である。モコは黒人で投票権がないので、投票するのは十四人だから、八票で当選する。(p183引用)
ちなみにモコはずっと他キャラクターには敬語で接しています。他キャラクターからモコへ話しかけるときは当然タメ口です。
またこんなシーンも。
この見習い水夫は、たいへん器用で、勇気があり、難船した少年たちにとって、大いに役にたつことになるのである。かれは、とくにブリアンに忠実で、ブリアンのほうでも、モコが好きであることをかくさなかった。イギリス人やアメリカ人の友達は、きっとそれをへんに思ったことだろう。(p51引用)
上記のシーンは、むしろ人種差別をブリアンが善性や公平性に優れている良いキャラクターだということを説明するために利用しています。持つ者が持たざる者に施しを授けているシーンなのです。
他にも物語中盤に少年たちが、たどり着いた島に名前を付けようと盛り上がるシーンがあります。
「あのね」と、コスターが言った。「ぼくらはチェアマン学校の生徒だから、チェアマン島としようよ」
なるほど、こんないい名まえはない。(p124)
いや、これ十五少年漂流記ちゃうんかい!モコ学校の生徒とちゃうやんけ!と読んでてツッコんでしまったのですが、冷静になってみると「十五少年漂流記」は邦題です。
原題は「Deux ans de Vacances」。フランス語で付けられたタイトルを直訳すると「二年間の休暇」。
休暇を取っているのはチェアマン学校の生徒たち14人だけで、モコ見習い水夫として雇用されていた身分です。原作者ヴェルヌにとって物語の主役はあくまでも14人の少年たちだけなのです。マジか。
なぜモコは船に乗せられていたのか
あわれタイトルにも存在が反映されない黒人の見習い水夫モコ。
白人の少年たちが読んでいてワクワクするような、白人少年が活躍する冒険譚を描きたい。それならばヴェルヌはなぜ黒人のモコというキャラクターを船にわざわざ乗せ、一緒に少年たちと漂流させたのでしょうか?
これは私の推論ですが、モコはいわゆるインフラとしてのキャラクターだったのではないでしょうか?
年端も行かない14人もの少年たちのためのインフラ・・・つまり食事などの家事労働を引き受けるキャラクターです。実際物語の中で、モコは料理と洗濯が担当でした。
モコ以外のキャラクターは狩りをしたり、釣りをしたり探検したり、何かを作り上げたりとクリエイティブな作業を担当しています。モコもたまに探検に同行しますが、その時はついでにボートを漕ぐ力仕事にも従事しています。
モコ一人で料理や洗濯手が回らないときは少年たちも「手伝う」「仕方なく手伝う」といった描写が出てきますが、あくまでもサポートといった感じです。
栄養と健康を保つための食事や洗濯は生きる為に欠かせません。描写をまるごと省けばのめり込むようなリアリティさは失われてしまう。けれど女性でも召使いでもない裕福な少年がそのような家事労働をするでしょうか。
読者も白人の少年たちです。少年たちにとって、家事労働にいそしむなんて読んでいてもつまらないシーンでしょう。
上流階級出身の、白人の少年たちがやりたくないことを「喜んで引き受ける」ために黒人であるモコが必要だったのではないかと思います。
「十五少年漂流記」というタイトルは1896年に日本語訳で初版されたときに付けられたそうです。
モコを入れて15人であったこと。
昔は15歳で元服し、大人だと認められたこと。
乗船した少年たちがみな14歳以下だったこと。
それらを含めて語呂の良い「十五少年漂流記」としたのかもしれません。
ヴェルヌにも顧みられていないモコも入れて15人全員の冒険譚だとタイトルを変えたのは優しさでしょうか。
それとも差別なんてないんだよ、と覆い隠すだけのパッケージングになってしまったのでしょうか。
「きみは哲学者だね、モコ!」
「哲学者って、なんのことか知りませんがね、ぼくはどんなことがあっても、腹を立てないことにしてますよ」(p168)
ブリアンがモコの精神性を哲学者だと称えていたシーン。
モコは本当に哲学者でしょうか。それとも仏教徒?
私には、モコは怒る権利すら奪われているように思えます。
怒りや人間らしい感情に任せ行動した黒人たちがどうなったか。わずか12歳でも、ずっと前から開拓者に雇われている家族を見て育ったキャラクターがモコなのです。
モコはどうなったんだろう
少年たちが島に流されてきてから1年半後、物語は急展開を迎えます。
同じように嵐に遭った漂流者たち(悪者)が上陸してくるのです。
その悪者たちはもともと商船であった船で暴動を起こして乗っ取り、代えがきかない操舵手の男性と気まぐれで悪者に生かされた家政婦の女性を残し他の乗客、船員を皆殺しにしました。
命からがら逃げ延びたその2名と少年たちは力を合わせ、悪者たちを全滅させます。
そしてその悪者たちが乗っていたボートで島を脱出、途中で汽船に救助されニュージーランドまで送り届けてもらってエンディングを迎えます。
エンディングではキャラクターのその後が少し描かれています。
ドニファンは講演をし、日記係となっていたバクスターの記録が出版され、終盤で出てきた操舵手の男性には寄付金で汽船をプレゼント、女性はドニファン家で暮らすことになりました。
最後の締めくくりの文はこうです。
とくに、つぎのことを忘れないでいただきたい。スラウギ号で難船した少年たちは、いろいろな困難によってきたえられたために、国に帰ったときには、下級生は、ほとんど上級生のように、上級生はおとなと同じように、りっぱな人間になっていたのである。(p268引用)
だからモコは学生じゃないんだってば!上級生でも下級生でもないの!!
マジでびっくりしたのですが、ほんとうにモコのその後だけが描かれていません。終盤にぽっと出た2名ですら描かれて(しかも高待遇)いるのに。
ひょっとしたら少しばかり賃金をはずんでもらったかもしれませんが、モコの勇気や献身が称えられ(モコは機転を利かせ悪者2名をやっつけています)、相応の報酬を得られたかは疑いが残ります。とことん透明化されてしまうモコ。
肝心の冒険譚そのものがあまり起伏がない(なにせ少年たちは大門未知子ばりに失敗しない。怪我も病気もほぼしない上に、島には豊富に食材が存在している)ので、途中からずっとモコの動向が気になっていました。しかし描写されないことで却って根深い人種差別が浮かび上がっている。まるでエンボス加工・・。
あくまでも当時の価値観で書かれた小説です。その価値観を、現代の価値観で断罪するつもりはありませんし、できないでしょう。奴隷貿易も、人種差別も起こったことは事実で、無かったことにはできません。
けれど現代でもモコのように、怒らないことが美徳とされ、感情の発露を奪われている人はいないでしょうか?自らの働きを、インフラ扱いされて正当な報酬を得られていない人はいないでしょうか?
持っていない人や奪われた人に目を向けるのではなく、ただ施しを与える側のみに称賛を向けてはいないでしょうか?
およそ数十年ぶりに読み直した十五少年漂流記。とても面白かったです。
蛇足 本当の「戦犯」は誰か?
物語冒頭で流されてしまったスラウギ号。
その網を解いてしまったのはブリアンの弟・ジャックでした。
ほんの出来ごころのイタズラが、とんだ大惨事を招いてしまったのです。
ジャックがクソガキであることは疑いのない事実だとして、彼はまだ10歳。
ひょっとして船内にひとりでも大人が残っていたらイタズラをしようとは思わなかったかもしれませんし、イタズラをしても大人が居れば沖に流される前に対処できたかもしれません。
そもそも一番年少の子はまだ8歳。
そんな子どもたちを残して水夫長は酒場へと繰り出してしまい、夜遅くまで帰らなかったのです(子どもたちが乗船したときに出迎えたのは水夫長と見習い水夫のモコのみ。船長であるガーネットの父親は出発当日の朝乗船予定で、他の水夫たちはすでに酒場で飲んでいた)。
もちろんこの「無責任な大人」がいなければ冒険は始まらなかったでしょう。
でもちょっとナイよね〜。